Мой путь

私は現在ベラルーシ国立大学ジャーナリスト学部でロシア語及び、ジャーナリズムを学んでいます。ロシア語を活かせる仕事に就くためです。

なぜ私がロシア語を始めたのか、どうしてベラルーシ大学のジャーナリスト学部を学習の場に選んだのか?それには少し長い歴史があります

Мой путь

あるとき、私はベラルーシ出身のキックボクシングの選手アレクセイ・イグナショフを知りました。彼は試合をしによく来日し、自分の本職の美を献身的に追求していました。当時、彼は大学の心理学部の学生で、学者になることを夢見ていました。インタビューで彼はたびたびロシアのことわざ、アネグドート、詩を語っていて、私はそれにひきつけられました。私にとっては彼との出会いがロシア語を始めるきっかけとなりました。

二〇〇四年のアテネオリンピックの時には、テレビでロシア、ウクライナ、ベラルーシのスポーツ選手を応援していました。私は彼らの強さ、勝利、演技の美しさだけでなく情緒、涙、心からの笑顔に感動しました。

やがて、私は日本語に翻訳されたロシアの作家ヒョードル・ドストエフスキーの作品を読みました。なかでも彼の小説“白夜”には深い感銘を受けました。

それから私はロシアの俳優セルゲイ・ボドロフ・ジュニアの出た映画に夢中になりました。特に彼が初めて主役をした映画“コーカサスの虜”が気に入りました。そして彼が出演した映画“ブラザー2”を何度も見ているうちに、ロシア語で詩を一つ覚えました。(私には大家族がいる 道も森も野原の一つ一つの穂も 川 青い空 全てが私の故郷 この世界の全てを愛している)

こうしてロシアの文化に興味を持った私はロシア語を学び始めました。

まずは日本の専門学校で一年間、それから一ヶ月ロシアで学びました。そこへは尊敬する先生が引率してくれ、私は彼に自分の兄弟かのように接していました。実り豊かなロシアへの留学でした。

しかし日本へ帰ると私は勉強をやめ、ロシア語を伴わない仕事に就きました。

その時、私はただひたすら働き、ロシア語のことは考えないようにしていました。なぜならロシア語の学習をやめたことを後悔したくなかったからです。

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でも私は心の中はからっぽでした。私は仕事をやめ、新たにロシア語教室、独学でのロシア語学習を始めました。

二〇一〇年の暮れに日本の小学校で私はロシア語の通訳として、日本に転校してきたキルギスの女の子の学校生活を援助しました。彼女の家族は、私が二〇一〇年の夏にキルギスを旅行した際にホームステイさせてもらった家族と友達であることがわかりました。私たちはこのめぐり合わせを喜びました。なんて世界は狭いのでしょう!

私はこの小学校でキルギスの女の子に日本語を、彼女のクラスメート達にロシア語を教えていました。そして、私たちは鬼ごっこやかくれんぼをして遊び、どんどん仲良くなっていきました。彼らは私にとっての初めての生徒となり、私は先生になることを決めました。彼らと一緒に過ごせたことは、本当に幸せなことでした。

私はロシア語の学習を再開して本当に良かったと思います。なぜならそれは私に最もすばらしい感動をもたらしてくれるからです。

まもなくして、私はロシア語を学びにベラルーシへ留学しました。私がベラルーシへ出発したのは二〇一一年の三月に日本の東北地方で起きた大地震の直後でした。この地震による揺れで福島県にある原子力発電所から放射能がもれて首都の東京にまで広がってしまいました。ベラルーシにいる間、日本の状態が心配でした。福島県では一九八六年にチェルノブイリの原子力発電所で起きた事故の時と同じ放射能濃度が測定されました。今でさえベラルーシには放射能が残存し、人間や動物の健康に有害な影響を与えることもあります。ですから日本の今後が心配です。でもベラルーシも日本も万事うまく行くことを信じています。

ところで、この地震は一九九五年に私が故郷の神戸で体験した大地震を思い起こさせました。当時、私は福岡県の親戚のところに引っ越しました。そして、そこの小学校で神戸の町が復興するまで学んでいました。

この経験はベラルーシに留学した経験と似ています。それぞれの地震の時、新たな友達が私を支えてくれました。

留学中、私は日本で教わっていたロシア人の先生の友達のベラルーシ人達と知り合いました。彼らは自分の家族、友達、同僚を次々と紹介してくれ、私はベラルーシでたくさん友達に恵まれました。私たちは愉快に話をして、冗談を言い合いました。彼らは私にベラルーシ流の挨拶を教えてくれました。例えば、私たちは出会う時、別れる度にお互いを抱きしめました。どぎまぎして赤くなりながらも私はその挨拶に慣れていきました。そんな私を見て彼らは微笑んでいました。彼らの優しさと誠実さに大きな喜びと感動をもらい、私は帰国したくなくなりました。ベラルーシを出発する日が近づくにつれてますます帰りたくなくなり、彼らと別れるのが悲しくなりました。でもロシアのことわざにあるように“遠くまで見送ると涙が余計に出る”なので、また会える日を信じて笑顔で彼らに別れを告げ、二〇一一年の秋に私は母国に帰りました。

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ベラルーシ留学は私にとってかけがえのないものになりました。

日本へ戻った私はベラルーシの友達のことがなつかしくなりました。そして、ベラルーシでさらに勉強を続けたくなりました。私は行くべきかとどまるべきか迷いましたが、二〇一二年の一月、厳冬の時に再びベラルーシを訪れました。

ベラルーシの友達と先生は私を温かく迎えてくれました。その時、私は正しい選択をしたと確信しました。

とても信頼を寄せる先生が私にジャーナリストか作家になるように勧めてくれました。私は自分の天職が見つかったような気がしました。その先生の「評価されるのは卒業証書でなくあなた自身!すばらしいジャーナリストになってくれれば‐‐‐」というアドバイスをもらい、私はベラルーシの大学のジャーナリスト学部に入学しました。

スポーツ関連のジャーナリストかロシア語教師になることが私の目標で、それを達成するためにもロシア語を学び続けます。

Мой путь

ロシア語を学ぶ過程で知り合った多くの先生や友達との出会いはとても大切で、それは私の夢の実現に繋がるでしょう。

この自分の“道”を私がロシア語を学ぶことを応援し、支えてくれる全ての人に捧げます。

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